刀剣の面白さ美しさに魅せられて六十年

 私の生まれたのは昭和の一桁です。小学校時代に学校の帰り道には、鍛冶屋、桶屋、籠屋、下駄屋、唐傘屋、棒屋等の職業の家があって、そこの家に立ち寄り仕事振りを見ながら一時間も二時間も道草を喰ったものです。
特に鍛冶屋の仕事は壮観で、夫婦の息の合ったリズムカルな槌の音、鞴の火口とバルブの音、凄まじい勢いの火玉と湯玉、立ち上がる湯気の匂い、出来上がっていく刃物とか鍬、何をとっても非常に魅力的なものが一杯ありました。

 家では父が野山で使う斧、鉈、田畑で使う鎌、鶏や兎を自家用食肉の解体に使う出刃包丁、髭を剃る日本剃刀、(鋸は目立て)等々を研いでいる(荒砥は日本平の裏山の平沢から拾ってきた十キログラム位の石であった。)のを良くみて暮らしていたので、自然と研ぎの真似がしたくなり、最初は鉛筆を削るナイフから始め中学一年生の頃には、鳴滝砥を使って日本剃刀なども研げるようになりました。

 兎に角、刃物が好きであったようでした。そんな私が刀剣に始めて出会ったには小学校の四年のときで、約六十年前のことです。
当時は程度の差こそあれ多くの家の箪笥や押入れの中に脇差や刀があったようです。又、時局柄日米決戦に備えて仕入れた家もあったように聞いています。我が家にも脇差が一振りありました。
五十センチ位の長さで湾れの刃文で無銘物、鉄の透かし鍔、縁頭は素銅、目貫は何が付いていたか、地鉄がどうの等無関心で覚えは全くありません。しかし、良く切れた。家族に見つからないようにしてこれを振り回し、小枝を切ったり、小動物を切ったり、或いは本土決戦に備えて抜かりのない様に研師の真似をして砥石を当てたり、拵えにあれこれと手を加えて楽しんでいました。
兎に角良く切れ、姿、格好が良いことが何よりの魅力であり、それだけで自己満足をしていたようです。今考えれば、脇差にとっては甚だ迷惑なことだったと思います。
 そして、その延長が現在のような気がしてなりません。ところが思わぬ敗戦で刀剣類も表沙汰に出来なくなりました。

 私の義理の叔父は当時陸軍の将校でガダルカナルから病気で引き上げ連隊勤めでした静岡34勤めでした。連隊でも一、二を争う名刀(南北朝の長船物)を持っていたので、没収を避けるため私の家へ預けに来ました。父が時々手入れをしているのを横で見ていて、子供心にもとても素晴らしいものと思い、さすが手を出すような気持ちにはなりませんでした。

 昭和二十年八月十五日をもって事態は一変してしまった。「刀剣類は全て武器と見なされ、GHQの命令によって没収する。

 どこえ隠しても電波探知機で調べるから無駄だ。

 違反したものは琉球へ島流しにされる」等々デマらしき情報まで入り乱れて飛び、刀剣を所持していた人々、或いは美術館、神社、仏閣の関係者は大混乱を起こし、中には名刀を犠牲にしたケースも多々あったと聞いていますが、赤羽刀の問題も多分この時代に発生した事かと思われます。
この間において、本間、佐藤両博士のGHQへの必死の懇願が功を奏し美術刀剣としての所持は可能になったと言う事はずっと後に会員になって知った事です。一方我が家の脇差は新聞紙に包みこまれ天井裏の束に縛り付けられて、役十五年間疎開し悪戯小僧にも見つからずゆっくりと休養したようです。

 私と刀剣の関わりも昭和二十年八月十五日以降は暫くの間はすっかり途切れてしまいました。終戦直後はこれまでの学徒動員での勉学のロスを穴埋めする為に数年間は学業に専念しました。就職してからも新米職員で趣味までは気が回らず、デパートなどで刀剣の展示即売会などがあれば気軽に見に行く程度でした。
 
ところが昭和三十八~九年だと思いますが、三島出身の方で刀剣好きな課長が赴任されてきました。月に何回か刀を持ってきては、講釈をいって職員に見せたり市内の刀剣商を回り歩いたようです。

 どうもこの課長が刀剣趣味のビールスを撒き散らし、今まで忘れていた私の刀剣趣味を思い出させた張本人らしいと思います。それから間もなく日本美術刀剣保存協会の会員にも加入し、その後、静刀会にもいれてもらい本部の深江講師、若き日の渡辺妙子氏その他支部の先輩諸氏の良き指導を受け、且つ自分なりに本格的な勉強を始めて現在にいたっていますが鑑識眼は一向に上達していない現状です。

 昭和三十年代後半はわが国の産業、経済の活動は拡大再生産をし始めた年代です。景気も好調で勤め人の給料も毎年かなりの率で上昇していったようです。刀剣会も好調のようで、静岡市にも数軒の刀剣商、研師、鞘師等がありそれぞれ繁盛していたようです。

 私がよくお世話になったのは主にK刀剣商、I刀剣商でした。
刀剣の勉強をしている内に、唯鑑賞するだけでは物足らずつい昔の癖が出てきて刀を研磨したり、白鞘を作ったり、はばきをつくったり、或いは古い鉄鍔の錆付け仕上げ等をして楽しむ事を覚えました。

 研磨については、I刀剣商に大変お世話になりました。

 忙しいところを快く受け入れて頂き、親父さん、息子さんのG氏、研師のA師には研磨の基本姿勢から、各工程の研ぎ方、拭い、刃取まで長期間に亘って親切にご指導頂き大変有り難く思っています。
研磨をして一番良かった事は刀の姿、地鉄、刃文、沸、匂い、映り等々の鑑定の大切な要素を身をもって体験できたと思います。
役半年かかって七十五センチ程の現代刀を研ぎ上げた(光らせた)ときは大変嬉しく思いました。K刀剣商にもよく伺いました。大変器用で、頭の回転の早い方でした。名刀(古刀、新刀最上作級)を沢山仕入れてきてはその特徴を丁寧に説明してくれました。貧乏勤め人私などは、ただ見せて頂くだけでとても手がでるようなものでは有りませんでした。

しかし、ここで名刀を手にとって沢山見せて頂く事は良い事で鑑定会などで非常に役立ちました。この店には県下の刀剣会のお偉方も見えられたようで、当時の支部長も常連だった様です。
時たまお会いしますと、「若いのに刀の趣味を持つ事は関心だね、ここで勉強していい目を養って下さいよ」等と激励されたものです。

 或る日錆身の槍があり(籠槍)があり一見して気に入ったので(値段が安かった)購入しました。長さは11センチ足らずの正三角の槍で茎は三十五センチ銘文は薩陽臣奥元寛となっていました。
これも約二ヶ月かかって研ぎ上げたところ、見事な地沸のついた地鉄、元平ばりの金筋の入った刃文等々が蘇ったので白鞘も自作して大切に保存しています。拵えがあれば最高ですが中々手に入りません。刀を研磨するにはなかなか根気がいる事です。四十歳代までは時間さえあれば刀や脇差、槍等を研いで特別貴重刀剣にする事、機関紙「刀剣美術」の紙上鑑定に応募して年間満点賞を取る事が楽しみでした。

 また、当時は毎年各地で貴重刀剣及び特別貴重刀剣の地方審査があり、このお手伝いにも参加させて頂きました。浅間神社、安西のお寺旅館等で行われました。各人は受付、運搬、拭い、押し型取り、調書係り、写真係り等々役割分担を決め手際よく行われました。
私達は名刀を数多く手に取って見られる絶好の機会なので時間の経つのも忘れて、お手伝いしましたが、幹部の方々はさぞ気苦労も多く大変ではなかったかと思いました。

 更には、一日千数百振りの刀を審査する佐藤寒山先生の眼力とスタミナには驚かされました。
昭和四十年代後半からは、転勤とか労働問題、昭和五十年年代からは、行動科学(マズロー・マクレガー・クルト、レビン等々の諸説)に基ずいた経営管理、職場の活性化問題、小集団活動等を勉強したり、講義をしたりでとても趣味のほうまで手が回りませんでした。退職したら思う存分に刀剣との関わりに没頭しようと思っていましたが、この夢も見事打ち破られてしまいました。

 待っていたのは、二千数百坪の茶園、柑橘園等の管理、JAの役員、簡易保険旅行友の会事務局長、退職互助会、局長OB会から、いつかは必ずお世話にならなければならない菩提寺の役員まであって、兎に角忙しい毎日を送っています。若い、若いと思っていた私も、とうとう七十歳の大台に乗ってしまいました。元々回転の悪い頭が何かのショックで良くなるかと思っておりましたが、逆に益々悪くなりつつあります。

 このペースを少しでも緩めようと最近は無理に時間を作っては在庫の槍の中で薄錆状の四本、4寸五分の平三角、銘(下坂)、五寸の笹穂(無銘)、五寸の両鎬、表銘(東肥熊府住延寿宣勝作)裏銘(嘉永六年八月日)一尺二寸の平三角、銘(兼行)の白鞘と柄、それぞれに拵えに入れる連木を作るのに熱中しています。たかが槍の白鞘、つなぎ等と思って作り始めましたが、されど槍の白鞘、つなぎで、やって見ると中々難しく何回か失敗(研磨では許されない)を繰り返しやっと一セット一週間掛かって完成しました。後は本身を研磨するだけで一件落着となります。兎に角、入手した時よりも少しでも良い状態にして後世に残す。これを私のモットーとして生きて行きたいと思います。

 日本刀の趣味も60年も続けていると結構な数になります。
その一部を年代順に紹介すると先ず,古刀では、古青江、長船景依、倫光、基光、盛重、相州綱広、冬広、新刀では堀川国広、親国貞、南紀重国、播磨守金高、越後守包貞、伊賀守金道、大村加卜、土佐の吉行、4代忠吉、河内守祐定。新々刀では3代正良、古山宗俊、栗原筑前守信秀、等々で総数は100振り近くなります。その全てを良い状態に保つにはそれなりの努力が必要になりますが、別に苦労にもならないのが不思議です。

 今私が一番関心を持っているのは、大村加卜の大小です。大村加卜は皆さんご承知のように、現静岡市の長田地区上川原の出身であります。その後裔である当主の森清氏と我が家とは親戚関係にあり、先祖様の造った刀が我が家にあるのも、何か縁があったものと思われます。大村加朴は、江戸時代初期の外科医で越後高田藩主松平光長に仕え、専門の刀鍛冶ではないのですが、正保の頃から約100振りの刀を慰打ちとして、鍛えていると言われています。作風は相州伝と備前伝があり、初期の作品に名品が有ります。

 我が家の加卜の概要は大刀は備前伝で、長さ73.2センチ、元幅3.3センチ、反り2.4センチ、鍛え、板目詰み、地沸豊富につき、乱れ映り立つ、刃文は丁子乱れ、大丁子、蛙子丁子、袋丁子等々鎬にかかるところも多く、足、葉しきりに入り、匂い口冴えた出来で地には鮮明な映りが立っていて、一見、山鳥毛を凌駕するほどの出色な出来映えとなっております。脇差は相州伝で長さ54.2センチ、元幅2.9センチ反り1.6センチ。鍛え板目詰み地沸抱負につき、地景入る。刃文は広直刃調に丁子足入り、小沸良く付、砂流し細かにかかり、匂い口冴える。帽子は一枚風で江写しの作風となっています。

 日本刀の美しさは、姿形、地鉄、刃文の総合美に集約出来るという事はこの世界のメンバーの方々は十分にご承知の事ですが、一般市民の方々はこれを理解するのは難しい事と思います。機会あるごとに実物を持って指導、説明する事が何より必要な事と思います。

 また一般市民の方々の所持している刀も私達の所持している刀剣武具類等も一様に色々なドラマを秘めながら現在まで大切に保存されて来ています。
少なくとも私達会員はこれを大切に保存し、後世に引き継ぐ義務があると同時に、一般市民の方々にも日本刀は世界に類を見ない文化財だと言う事を知ってもらい大切に保存されるように仕向けていく事が何より大切ではないでしょうか。
 このような活動の積み重ねが愛刀家を増やし、後継者の育成にもなり文化財の保護にも繋がる事となります。
 
もう一つ大事な事は現在各人が所持している刀剣類は現実には個人が所有していますが、これは一時的に、天からの預かりものあると言う気持ちで大切に扱う事。
 
人生長生きしてもたかだか八十~九十年、その間に十分楽しんで頂き、最後には、最高の状態で後継者に引き渡す様に心がける事が良いと思っています。

 丁度、オリンピックの花、最後のリレーでアスリート達が死力を尽くして疾走し、次走者に華麗なバトンタッチをするように。