思い出

 人の記憶は歳と共に薄れて行くものだが、不思議に遠く過ぎ去った頃の或る瞬間の記憶が鮮明に蘇って来る事がある。私の少年時代の思い出は、敗戦という悲惨な体験と暗くて惨めな生活実感しか湧いてこない。

 日本が豊かになった今日でもその思い出が体に染み付いて離れない。
丁度その頃は食糧難であった為食料は全て配給制度であった。
当然三度の食事を充たすだけの供給が有る筈は無く、不足分は生きていく為に闇ルートで調達しないと家族が飢えざるを得ない状況だった。
 近郊の農家から米や麦薩摩芋等を手に入れるためには随分苦労したが、お金では全く駄目で全てが物々交換であった。
母が箪笥から着物を出して風呂敷に包み、そっと買出しに出掛けた姿を忘れる事は出来ない。
我が家から源氏物語の屏風が消え、什器類が消えそして銘刀まで消えていった売り食い生活の辛い毎日だった。
私が大学に入って刀に興味を持つようになった或る日、母が刀の折紙と刀袋を箪笥から持ち出してきて、我が家にあった刀の話をしてくれた。
 戦前、名刀は皇族、華族、名門の家に秘蔵されており、現在のように気軽に名刀を手のとって接する機会はなく、
日本刀を愛する人々にとって刀剣研究には随分苦労があった事は容易に推察出来る。
そのような状況もあってか、突然見ず知らずの刀剣愛好家が我が家の銘刀を見せて欲しいと訪ねて来た事もあったらしい。
その銘刀は母が嫁入りの際に守り刀として持参したものであった。
いまでも本阿弥親善(本家との関係は知らない)の折紙だけは残っているが、それによると二尺二寸六分の在銘の太刀で「助秀」とある。
 我が家から何時何処へ旅立ったのか知る由もないが、最近何気なく「重要刀剣等分類目録」を見ていたところ、折紙の寸法にほぼ合致する「助秀」が唯一本、古備前物として重要刀剣に指定を受けているものがあり、或いはそれかも知れないと勝手に想像している次第である。
 趣味を持つ切っ掛けは、偶然興味をそそられると言う事もあろうが、やはり何らかの潜在的な動機が必ず有るように思われる。
私の場合はその潜在的要因は母の話と売り払われた銘刀の折紙に行き着く。
その切っ掛けが顕在化したのが学生時代、デパートで見た日本刀の展示即売会であった。
その頃はどの刀も同じに見えたが、反りのある美しい姿と青白く光る刀身に心を奪われたのを記憶している。
その後会社勤めを始めて京都の実家から大阪に通うようになって、大阪梅田の阪急百貨店六階の阪急美術街にあった中宮刀剣店にしばしば立ち寄って、ショーウインド越しに展示品の刀を食い入るように見入ったものである。
 ある時、例によって刀を眺めていると私が余程刀に興味のある若者と思ったのか、老年の店員が声をかけてくれた。
その人は偶々日本刀を趣味に持ち、銀行を定年退職後中宮刀剣店に再就職した大学の先輩であった。大学の同窓の好みという事もあったのだろう。その店員さんは懇切丁寧に刀の手解きをしてくれた。
この事が刀の世界にのめり込む切っ掛けになったのは縁なのであろう。その後刀剣店が主催する研究会に参加するようになった。
 その時講師から言われた事は先ず初心者は国宝や重要文化財クラスの名刀を沢山見なさい。理屈はいい。
沢山見るうちに何故国宝か何故重要文化財かが次第に解ってくるものだ。言うならば一級品を見分ける基準が自然と身についてくる。
そうすれば、自らいい刀、悪い刀が見分けられるようになると厳しく教えられたものである。
そうして少々刀の勉強をしてから、手に入れた刀の第一号は中宮刀剣店で求めた備前の「信房作」(在銘)の小太刀であった。正に清水の舞台から飛ぶ降りるような思いで求めたその「信房」は明治の枢密院顧問で備前刀の収集家として有名な伊東巳代治翁の蔵刀の一つで、元々は大小揃いだった。大もやはり信房であったとの事で羨ましい限りである。例によって、達者な毛筆で細密に書かれた木札が拵えの袋についていた。
 その後、「信房」は京都に家を新築した時の資金として大いに貢献し、我が家から旅立って行った。

 

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